最近ニュースでよく耳にする話題の1つといえば、「あいちトリエンナーレ」ではないでしょうか?
特に、表現の不自由展・その後であったり、交付金の不交付の問題だったりでニュースによく取り上げられていたと思います。
そんなこんながあり、僕はあいちトリエンナーレ(以下、あいとり)に関心を持っていました。そして、先日時間があったのでヒョイっと行ってきたのですが…
そこでなんと、たまたま「表現の不自由展・その後」の抽選に当たってしまいました!
逆にいうと、それだけみんなの関心が高く、かつ展示を見ることのできなかった人が多いということでもあります。
僕は曲がりなりにもブログを2年間書いてきました。とりあえず、僕にできることをやろうと思い、このブログで
- あいとり、表現の不自由展・その後の写真
- あいとりの何が問題だったのか
- 僕がモヤモヤっとするところ
などについて書いてみたいと思いました。
目次 (クリックでジャンプ)
この記事を読むにあたってのお願い
何よりもまず最初に言っておきたいことは、「僕はアートの門外漢だ」ということです。
僕は芸術大学に通っているわけでもないし、美術手帖を毎月読んでいるわけでも、芸術館巡りが趣味なわけでも、まして絵を書いたりダンスを踊っているわけではありません。
ただ、それでも言っていかなけれなならないことがある、そう感じました。
今回のあいちトリエンナーレの騒動に関しては、様々な問題が、何層にも重なり合っているように感じています。そして、それらのうちのいくつかにおいては、僕も、そしてこの記事を読んでいるあなたにおいても決して無関係な話ではありません。
そして、何より重要な問題は、こうした議論は
- ゆっくりと、時間をかけて協議していかなくてはならないこと
- 迅速に、ただし適切に対応しなければならないこと
の2つがあるということです。
もちろん、脊髄反射で「コレはだめ!」と感覚でモノを言うのはよくないことかもしれません。でも、反射神経使って対処しなければならない事例がある、と言うこともまた事実です。
この記事を読んだ人で興味のある人は、ぜひ周りの人と話し合ったり、各団体から出されている声明に目を通してみたり、僕のようにブログで色々な意見を書いてみたり(?) してみてください。
以下、これからこのブログで引用したり触れたりするサイトをまとめておきます。
その他、開催中の出来事を時系列順に並べていて、かつリンクをたどりやすいサイトとして美術手帖のこのまとめが良いと思ったので置いておきます。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」展示中止にまつわる出来事のまとめ
あいちトリエンナーレとは
事前情報としてあいちトリエンナーレについて全く知らない人はいないと思いますが、いちおう、簡単に説明します。
あいちトリエンナーレとは、3年に1度開催される日本最大級の芸術祭です。
今年のテーマは、「情の時代」でした。
われわれは、権力によって、あるいはメディアによって、動物のように管理されている。
しかし、それでも人間は動物ではない。人間は、たとえ守りたい伝統や理念が異なっても、合理的な選択ではなくても、困難に直面している他者に対し、とっさに手を差しのべ、連帯することができる生き物である。いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。
(公式サイトより、一部抜粋)
また、今回のトリエンナーレは政治・ジャーナリズムとアートの融合という先端領域に挑戦したということも特徴のうちの1つです。
芸術監督にジャーナリストの津田大介氏が選出されたこともその背景にありました。
これが問題視されることもありましたが、これまでのトリエンナーレでもキュレーター以外の起用を成功させたことから、中間報告書では「人選自体に問題はなかった」とされています。
同じ中間報告書によると、2019年9月22日の時点では入場者は約43万人で、前回のトリエンナーレを2割ほど上回っていたそうです。
表現の不自由展・その後の様々な騒動について
開催期間中にあったことやこの問題の全体像を説明するようなことは、ここではしないことにします。
とりあえず、以下の流れだけ押さえて先に進もうと思います。
- 8月3日、あいちトリエンナーレ開催
- 8月3日までの開催当初、展示室内は比較的平静だった (数件の問題行動が報告されている)
- 県内外からの電話・FAX・メール等による、いわゆる電凸攻撃がある
- 名古屋市長や他県の政治家から中止すべきとの意見が出る
- 8月3日 17時に中止が発表される
- 中止に対する国内外のアーティスト、メディア、各種団体から抗議を受ける
- 不自由展以外の出展作家が作品の展示を中止、または変更した
- 10月8日、不自由展再開
あいちトリエンナーレの写真
それでは、あいちトリエンナーレと表現の不自由展・その後の写真を上げていきたいと思います。
今回のトリエンナーレの、個人的に新鮮だった点は、多くの作品でSNS写真投稿が推奨されていたことです。
また、順番は適当です。
↓おまけです。
お昼は、愛知芸術文化センターから徒歩5分くらいの「スパゲッティーハウス そ〜れ」さんでいただきました。
とりあえず、この辺りで先に進みたいと思います。
表現の不自由展・その後の写真
では、いよいよ表現の不自由展・その後の内部の写真です。
本当に写真はたくさん撮ったのですが、ブログに載せることができるのはそのほんの一部です。
とりあえず、写真を並べていきたいと思います。
⬆︎この2つの写真は、不自由展の会場に入る前に抽選に当たった人たちにあらかじめ見せられたカードです。
不自由展への抗議や中止を受けて、トリエンナーレ側が用意したものです。
展示室の前には、このような張り紙がされていました。
全部の写真は撮ることは叶いませんでした。写真は展示作品のほんの一部です。
展示室の全体の写真は撮ってはいたのですが、多くの人が映り込んでしまったために、公開することは控えたいと思います。
モザイクをかければなんとかなると思うので、後日やってみてできる範囲で公開したいと思います。
僕が見たあいちトリエンナーレ
さてさて、ではここからちょっと込み入った話になっていきます。
話の内容は、ズバリ、「表現の不自由展・その後」の問題についてです。
今回の問題は、一言ではまとめられないと思います。様々なレベルの問題が何層にも積み重なっていて、今でもいろんな人や団体が様々に意見を交わしているところです。
例えばよく言われているような問題点は次のようなものです。
- 美術展の、事前準備や事態への対応の仕方についての問題
- 表現の自由と “アート” についての問題
- 交付金の不交付、検閲についての問題
こうした問題が、いく層にも積み重なってしまって、すぐにパシッと「これが正しい!」とか、「こうあるべきだ!」という答えが見えにくくなってしまっているみたいなんです。
この世に存在するほとんどの事柄はグレーで、シロとクロにはっきり切り分けることができるのは全体から見てほんのわずかだ。
あいちトリエンナーレ 開催概要から
また、もしかしたら開催概要のいうように、こうした問題において、はっきりした答えなんてないのかもしれません。
ただ、ここで「じゃあ正しいことなんてないのだ!」と開き直ったり、自分の信じたいことだけを信じる、というようではダメなんですよね。
特に今回の件に関しては、SNSで強く物を言っている人たちの多くは、自分たちの思ったことや耳に優しいことだけを主張していたように思います。
でも、それだけで本当に良いのかって話です。いや、もちろんダメなんですけど。
SNSとかって、多くの人とつながっているようで、実は物凄い狭い範囲だったり、自分と同じ考えの人が集まっています。
なので、みんながこう思ってるから、友達や家族がこう言っているから、というだけでそれが真実だと決めつけてしまうのは些か早計というものです。
今回のトリエンナーレの中間報告を読むとよくわかるのですが、表現の不自由展・その後に電凸をした人のほとんどが作品を全く見ていない、その背景も知らない人でした。
第一印象で、パッと「こう思う!」とか「これはこうじゃないか?」と感じることは良いことだと思います。これは、感覚の問題です。
ただ、そうした感覚でもって、反射的に行動してしまうことは良いことであるとは思えません。
難しいのは、ただ、これは「反応が早い」こととは違うということです。反射的に反論するのと、相手の意見に反応して反論することの違い、といえばわかりやすいでしょうか?
大切なことは、これらを混同しないことだと思います。
不自由展問題で感じた、僕たちがすべきこと
では、僕(たち) はどうするべきなのでしょうか?僕が感じた3つのことを僕なりに書いてみたいと思います。
1つ。多くの人や意見に対して広いスタンスを持つこと。この “多く” というのは決してTwitter のアカウントの数、ということではなく、様々な意見、ということです。
スタンスを持つ=受け入れる ということの他に、多くの人と積極的に意見が交換できる場があると良いと思います。
2つ。その様々な意見に対して、反射的にこうだ、ああだと対処しないこと。自分の考えは、環境や所属している集団の規範に沿ったものだということを知ること。
3つ。他の人が言うことや “意味がわからない” ことを知る、知ろうとすること。その行為に目を向けてみること。
例えば、今回の騒動で注目された「検閲」や「表現の自由」については冒頭に挙げたリンクなどの様々な資料で検討されています。
こうしたものに目を通すだけでも、より突っ込んだ議論ができるはずです。
また、もう叶いませんが、実際に展示を見にいくということももちろん大切なはずです。
まとめると、
自分とは違うもの、見たくないものを無視したり、反射的につっぱねたりするのではなく、目を向けてみることが大切なんじゃないか
ということです。
最後に: まとめ
以上、あいとり の写真と、僕が感じたことのあれこれでした。
普段よりちょっとブログっぽくなりましたね。
自分とは違うもの、見たくないものを無視したり、反射的につっぱねたりするのではなく、目を向けてみることが大切なんじゃないか
ということに関しては、(僕は専門家ではないのですが) アートの世界でも同じようなことが言えるんじゃないかと思っています。
特に現代美術なんかはぱっと見てキレイだとかステキだとかそれだけで終わるようなものは少ないですよね。むしろ、ウッとするようなものだったりわからないものの方が多いはずです。
そうした時に、そこに何が見えて、何が見えなくて、何がどう感じられて、なぜ見えなくて、なぜ感じられないか、見る前とあとでどういう感じ方の変化があったか、こうしたことを考えてみることも、美術館に行ったりアート作品に触れることの理由の1つのはずです。
最初にも言いましたが、今回の問題に関しては、決してアート業界だけの問題ではないと思います。
ぜひ、身近な人と話し合ったり、先に挙げたリンクから情報を集めたりしてみてほしいと思います。
以上です。