夏目漱石と聞いて、あなたはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか?多くの人は、
・明治時代の文豪
・『我輩は猫である』の作者?
くらいの印象ではないでしょうか?
そこで、この記事では夏目漱石の生い立ち・代表作品から有名エピソードまでをまとめてみました。
目次 (クリックでジャンプ)
生い立ち・あらすじ
幼少時代
漱石は夏目家の末っ子として誕生しました。夏目家はもともと裕福な家でしたが、漱石の生まれた年が江戸幕府の崩壊の年と重なったこともあり、また五男三女の末っ子でもあったのであまり喜ばれなかったそうです。
生後すぐ里子に出され、その後養子に出されました。9歳の時には生家に戻ってくることができたのですが、正式に戸籍を写すことができたのは長男、次男の死後で、漱石が21歳になってからのことでした。
学生時代
早くから漢籍に親しんでいた漱石は、漢学塾の二松学舎に入学し、儒教的な倫理かな東洋的な美意識を身につけます。
また、大学予備門に入学した後は水泳、ボート、テニスや寄席通いなどを楽しみます。このころの同級生が正岡子規で、子規が漢詩文集を編んだことに刺激され、漱石も『木屑録』などをまとめたりしました。
そしてその後、今の東大の前身にあたる東京帝国大学英文科に入学します。このころから、漱石は神経衰弱に悩まされるようになります。
教師時代
漱石は、大学院に進み、同時に東京高等師範も務めていましたがその職を突然に放棄し旧姓の松山中学に英語教師として赴任します。(この松山での体験からの地に『坊ちゃん』が書かれることになります。)
翌年は五高(熊本)に教授として着任するとその後文部省留学生としてロンドンに渡航します。このロンドンの体験からのちに倫敦塔が書かれました。また、千円札の肖像画として採用されたのもこのロンドン渡航の功績があったからだと言われています。当時は国際的に通用する人物というのが条件だったからです。
しかし、現実は悲惨なものでした。英語の著作で英国人と競争することを夢見た漱石でしたが、留学費の不足や西洋の慣れない暮らしから強度に神経症に陥ってしまいます。
作家時代
帰国後、東大講師となった漱石は高浜虚子の勧めで「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を執筆、以来投稿を重ねていきます。
当時の文芸界では自然主義が最盛期を迎えていましたが漱石はそれに同調せず、余裕を持って人生を眺める立場をとりました。そのため、漱石は自然主義から批判的な意味で「余裕派」と呼ばれていました。
その後、朝日新聞社に入社し、以後漱石は新聞小説として作品を発表し続けます。この頃から漱石の作品は人間の内面やエゴイズムに目を向けていきます。
自然主義
自然主義とは、人間や社会の実相を科学的態度で客観的に描こうとした文学です。日本文学における自然主義は島崎藤村の『破戒』と、田山花袋による『蒲団』で確立し明治末期の文壇の主流となりました。
これがのちに作家自身の身辺を描く、私小説・心境小説に変化していきます。
晩年
胃を病んでいた漱石は療養のために修善寺に出かけていましたが、そこで吐血し生死の淵をさまよいます。当時44歳、これが世に言う「修善寺の大患」です。これにより漱石の人間の内面に対する考察は一層鋭さを増していきます。
またこの頃から精力的に講演を行うようになります。
晩年、「則天去私」の境地を作品化したと言われる「明暗」にとりかかっていましたが、未完のままこの世をさりました。享年は49歳、12月9日になくなりました。
有名作品
次に、有名な漱石作品を紹介していきたいと思います。どのくらい読んだことがあるでしょうか?
我輩は猫である
吾輩は猫である。名前はまだない
中学教師の苦沙味先生の書斎に集まる、美学者の迷亭、理学者の寒月、詩人の東風ら明治の知識人たちが語る珍談、奇談、小事件の数々が名前もない猫の目を通して語られます。
漱石の処女作であり、代表作でもあります。「吾輩は猫である。名前はまだない」の冒頭でもおなじみで、この出だしをもじった作品やパロディも多くみられます。
坊っちゃん
親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間程度腰を抜かしたことがある。
素直で勝気な「坊ちゃん」が東京から松山の中学校に数学教師として赴任します。周囲の無気力さに反発し、行動派の坊ちゃんが同僚の山嵐とともに教頭や赤シャツと真っ向切って対峙するお話です。
漱石の松山中学の体験に基づいて書かれた作品で、初期の代表作です。この作品も冒頭がとても有名なので小学校や中学校の時に暗記したという人も多いのではないでしょうか?
草枕
山道を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
「非人情の境地」に憧れる青年画家は温泉宿で那美という女性と出会います。青年は那美の表情を絵にしようとしますがうまくいきません。しかし先夫と出会った瞬間の那美の顔をみて青年は一枚の絵が胸の内に成就したと思います。
山奥の桃源郷を舞台に、絵画的な感覚美の世界を描きます。自然主義文学の批判を込めたとされる初期の頃の作品です。これも冒頭が有名。明治の頃の悩みですが、現代に通じるところがありますね。
夢十夜
死んだ女が白百合になって転生する話(第一夜)や、運慶が仁王を「彫り出す」話(第六夜)など自分のみた夢を描き出した作品です。夢小説であり、漱石の世界観を知るにはもってこいの作品です。同時に、文学的、芸術的にも評価の高い作品です。
三四郎
ウトウトとして目が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を初めている。この爺さんは確かに前の前の駅から乗った田舎者である。
熊本の高校を卒業して大学に入学するために上京した三四郎にとって、都会での見るもの全てが新鮮なものに映ります。三四郎はそこで様々な人物に出会いますが、そのうちの一人である美禰子という女性に心惹かれます。しかし狩野樹は謎の言葉、「迷える子羊」を三四郎に投げかけ、ほかの男と結婚してしまいます。
学問・友情・恋愛への若者の不安と戸惑いを描いています。失恋に終わる三四郎の恋ですが、その中に当時の社会への批評が込められています。『三四郎』・『それから』・『門』は前期三部作と呼ばれていて、この三四郎はその第1作目です。
それから
誰か慌ただしく門前を駆けて行く足音がした時、大助の頭の中は、大きな俎下駄が空から、ぶら下がっていた。
自由を失うことを恐れる大助は、30歳になっても職を持たず父からのエンジュで暮らしていました。大助はかつて美千代という女性と愛し合っていましたが、義侠心から友人である平岡に彼女を譲ってしまいます。しかしのちに大助は美千代と再会し、愛の告白をした挙句、家まで飛び出してしまいます。大助は破局を予感しながらも運命に苦難の道を突き進みます。
三部作の要となる中編小説です。世間の道徳を超える倫理を追求しようとした漱石の姿勢が見て取れます。大学で『それから』を通読するという講義がありましたが漱石作品について深く考えさせられました。
こころ
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
学生時代に「先生」と知り合った私は、先生の過去の話を教えて欲しいと頼みますが、先生は人間不信であることを打ち明けます。その後帰郷した私の元に先生からの手紙が届きます。手紙には先生の青春時代の過ちと後悔が赤裸々に語られていました。それは自殺を決意した先生の遺書だったのです。
漱石作品の中でも知名度、評価ともに最も高い作品の一つです。高校の国語の教科書にも載っていたので多くの人が呼んだことがあるかと思います。人間の矛盾や自我拡充の悲劇を主題にして苦悩する明治の知識人の行き着く先を描いています。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」というセリフもお馴染み。
明暗
医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田をおろした。
津田はお延と結婚していましたが、二人とも我執が強い人間であり互いに失望していました。一方でかつて津田が愛していた清子は、我執を持ちません。清子と再会した津田はなぜ自分から逃げたのかと清子に問いたいと思いますが、清子はただ笑顔を浮かべるだけでした。
漱石の未完の作品です。西洋の近代的ロマンの構想からなる長編大作になるはずでした。エゴイズムの克服を「則天去私」によって求めたと言われています。
エピソードなど
次は、作家、夏目漱石のエピソードです。漱石は有名人だけあって数々の逸話が残っています。
漱石枕流
漱石枕流とは、自分の失敗を決して認めず屁理屈をこねること。転じて負け惜しみが強いという意味です。
これは中国の故事成語で、中国の孫楚(そんそ)という人が、「石に枕し流れに漱くちすすぐ」と言うべきところで、「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまいます。その誤りを指摘された時、孫楚は「石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは耳を洗うためだ」と言ってごまかしたことに由来しています。
漱石というペンネームはここからつけられました。漱石自身も「頑固で負けず嫌い」な性格だったと言われています。
月が綺麗ですね
漱石が英語教師をしていた時、”I love you” を “我君を愛す” と訳した生徒に対して、「日本人ならそんなことは言わない。’月が綺麗ですね’ とでも訳しておけ」と言ったという逸話が残っています。
逸話なので詳しいことはわかっていませんが、世間一般でも「月が綺麗ですね」というのは「I love you.」の意味として解釈されています。あまり人前で(特に気になる異性の前で)言わないようにしましょう。
本当に猫に名前がなかった?
漱石の代表作、「我輩は猫である」に登場する猫には名前がありませんでしたが、この冒頭は実は実話だったのです。
ある日、夏目家にやってきた野良猫に対して漱石は、「うちで飼ってやれ」と言いました。その一言がきっかけで猫を飼うことになりましたが漱石は「ネコ」と呼ぶだけで名前をつけなかったと言われています。
則天去私(天に則り、我を捨てる)
こちらは漱石の造語で、晩年に彼が掲げた、人生の理想の境地です。読み方は則天去私そくてんきょし。エゴ(私)の追求の果てに自己の超越を天に乗っとることに求めようとしたものです。
受験で覚えておきたいこと
さて、この夏目漱石は受験にも必須です。このブログは受験対策記事も書いているのでこの際受験でよく出てくる事柄についてまとめておきました。
ちなみに、有名作品だけでも覚えておくと、選択肢を削る際に非常に役に立ちます。ぜひ覚えておきましょう!
キーワード
明治後半から大正初期に活躍
半自然主義 = 余裕派
則天去私
作品群
処女作:我輩は猫である
初期三部作:三四郎、それから、門
後期三部作:彼岸過迄、行人、こころ
未完:明暗
最後に
夏目漱石の生い立ち・有名作品から意外なエピソードまでまとめてみたでした。いかがでしたか?
意外と知らないエピソードがあったと思います。また、夏目漱石の有名作品も全部読んだという人は少ないのではないでしょうか?
時間があるときに今行ったような作品だけでも手をつけてみると良いと思います。ちなみに僕も全部読んでません…