Twitter でたまたま目にする短歌に、心を惹かれる夜がある。
それが、先日はこんな詩だった。
問十二 夜空の青を 微分せよ
街の明りは 無視しても良い
調べてみると、この詩の解釈において (そして、その評価について) 様々な議論が起こっていることがわかった。
さらに色々見ていくうちに、「これは違うのでは…?」といったものだったり、また「これはこうなんじゃないの?」と思ったりしたことがあった。
そこで、せっかくなのでこのブログで僕なりの解釈を試みようと思う。
うーん、いろんなスタイルがあると思うけど、僕は基本このままダラーっと書いていく。ちょっとうざったい言葉遣いが鼻に付くかもしれないが、生まれ持っての性分ゆえご容赦いただきたい。(←こういうところが!)
目次 (クリックでジャンプ)
基本的なスタイルは、言えるところまで言う
まず最初に解釈の大雑把な流れを書いておくと、
- この短歌での疑問点や解釈が分かれるところを洗い出す
- 自分で言えるところまで言う
- 解釈を広げてみる
という流れでいこうと思う。
なぜかという理由については話の流れを追った方が早いので割愛する。
ちなみに、僕のバックグラウンドとしては、
- 京大生、理系
- 宇宙系の研究室に所属している
- ブロガー
ということくらいを抑えておいてもらうとありがたい。
あとは、この短歌の読み手だが、ネットで調べて偶然見つけてしまった情報によると、
- 岡山県の高校生が詠んだ
- のちに京大の理学部に入学し、短歌会に持ち込んで話題になった
らしい。
情報が手に入ってしまったのだから、これは無視できないのではないか!、と思ったので、積極的に解釈の手助けにしていきたいと思う。
さて、ではここから、この和歌について僕が気になった点を3つ挙げてみたいと思う。
ちなみに、他のブログなどで様々な解釈がなされていると先ほど述べたが、かなりの数のものが2つ目について注目していたようだ。
1つめ “十二” の意味はあるのか?
上五(って短歌でもいうのかな?) の “問十二” だが、ここでなぜ 12なのか?
確かに、語呂が良いんだけど、どうもそれだけではなさそう、というのが僕の考えである。
まぁ、12 である理由は後で考えるとして、ここで注目すべきは
「問いの十一」までの流れが存在していた
という事実である。(おそらく、これは言っていい)
問十一までは何が問われていたのだろうか?
これを考えながら、次に進みたい。
2つめ 夜空の青を微分するとはどういうことか?
この詩のキーになるとも言えるワードは、100人中100人がこの ”微分” と答えるだろう。
僕もそれに賛成である。
では、”微分” とは何か?
教科書的な定義だと、このように書かれていることが多い。
ここで注目されるべきは、”夜空の青” を微分するとはどういうことであるか、であり、多くのブログがここに関していろんな意見を述べていた。
が、しかしである。
ここの “微分” に関してこれはと思える解釈がでてこなかった。以下に他のブログで言われていたことと、それに関して違うと言えるだけの根拠を述べたい。
① 天文学の星をしっかりみる、フィルタ
確かに、画像のフィルタにおいて「微分フィルタ」というものは存在しているけれども、これは画像のエッジを抽出するものであって、星のようなアイマイなものを見るのに適さない。(ノイズに弱い)
僕は画像処理の専門家ではないのではっきりと言えないけれど、これは間違っていると思う。
② 一瞬の時間を、永遠を切り取る
確かに、微分は写真に撮るイメージがあるかもしれないけれど、こちらは明確に違う。
それは dx のことであって、 dx/xt のことではない。
ちなみに、dx/dt だと「速さ」だけど、基本的に微分は「変化量」を見るものだ、というイメージを掴んでおくとよい。
③ 星を見るために、夜空の見方を変える
星をみるんだったら、積分のイメージが強い気がする。
つまり、ちょっとノイズののる画像に対して、「ちょっと明るい」という部分をずーっと見ていると、星があるところは明るくなって、ただのノイズのところはそれほど明るくない、みたいな。
途中でも行ったけど、微分の基本イメージは “変化量” である。
夜空の青の、変化量。
ピンとこなくてもいいや。ふんわりと抑えておいて、次に進もう♫
3つめ なぜ “も” なのか?
さて、3つ目の疑問。
後半部分は一見すると数学の問題の定型のように見えるけれど、「街の明かりは 無視しても良い」とはどういう意図があるのだろうか?
無視しても良い、ということは、無視しなくても良いということでもある。この下の句は一見すると無駄だ。
が、しかしである。もしここが、数学の定型だけを表したいメッセージだとしたら、短歌の貴重な下の句14 音を使おうと思うだろうか?
僕の答えはノーだ。すなわち、ここには「数学の定型のようだ」とか、「語呂がいいから」とかいう以上に、作者の意図があるはずである。
そこで、注目したのが、”も” である。
街の明かりは 無視して “も” 良いとはどういうことであろうか?
ここは疑問のまま、残す。
以上の疑問点をまとめてみると、以下のようになる。
- 問十二である必然性はあるのだろうか? (問十一までは何をしていたのだろうか?)
- 夜空の青を微分するとはどういうことだろうか?
- なぜ 無視して “も” 良いのか?
僕は、この疑問点にどこまで答えることができるのか?
さて、ではいよいよ解釈に入っていこうと思う。
最初に注目したのは、作者のプロフィールである。
- 高校生の時に詠まれた
- のちに、京大の理系に入学している
これを踏まえると、おそらく “微分” という語は、詠み手は数学的な意味で理解しているとして、とりあえずは良いだろう。
だから、ここでいう自分なりの “微分” の解釈ということは、許されていない、として話を進めた。
では、初めの疑問点からいこう。
なぜ “問十二” なのか?これについては憶測の域を出ないけど、これは「みんなで問題を出し合っている」ように感じたのは僕だけだろうか?
例えば放課後の教室で、みんなで問題を出し合うとき、12 というのは多くも少なくもない、ちょうど良い問題数のように感じる。
また、12 は 2でも3でも4でも割り切れる。これくらいの人数で問題を出し合う姿を僕は想像し、そしてそうすると “12” という数字は、「最後」の問題とも取れる。(3人なら4週目の最後、4人なら3週目の最後)
また、時計の針も12 で終わり、〇〇時ジャスト は下校時刻に重なるイメージも強い。
となると、この問十二 で思い描く風景としては、
- 複数人で問題を出し合う
- 問十二 で、最後の問題である
ことを強く意識させる。
夜空の青 とあるから、時間的には放課後あたりが想像しやすいのではないだろうか?
さて、ここまでで 「複数人ってのはちょっと強引なんじゃない?」と思う人も多くいることと思う。
そこでどこか、複数人というキーワードに、補強を加えてくれる素材を探してみよう。
とすると、ここで注目したいのが、”も” である。
〇〇して “も” 、良い。
なぜ “も” なのか? それは、あなたの考え次第でどう扱ってもいいですよ、ということである。
つまり、問題のとらえ方をそれぞれの個々人に投げているのだ。
数学の問題で、〇〇して良い・しなさい という時は、問題を簡単化するために(暗に必ず~しなさい) という意味で使われることが多い。
ただ、ここでのように 〇〇して ”も” 良いというときは、やってもやらなくても良い場合もある。
これは、回答者の考え方をみるような記述式の問題ではよくあることだ。
もっというと、この詩には「あなたの考えを聞かせてみなさい」という、問いかけ側の意図すら感じる。
あなたはどう考えますか?
と。
だんだん詩の核に近づいてきた気がする。
では、あなたのどんな考えを聞きたいのか?
もっと簡単に言えば、
問われていることは、何か?
簡単である。詩に詠み込まれている。
問い:夜空の青を微分せよ
これである。
さぁ、ここで要素が出揃った。では一体、夜空の青を微分するとはどういうことか?
この詩の中心的な話題は、やっぱりここではないかと思う。夜空の青を微分するとは、一体どういう手順のことなのだろうか?
微分とは、著者のプロフィールを見る限り、数学的なものである。しかし、微分の対象となっているのは、夜空の青 である。
そして、この問いは、こちら側に開かれている。
これが、ここまでの、この詩における僕の解釈である。
詩の解釈まとめ
さて、ここまでの流れを一旦まとめてから、次のステップを整理したい。
まず、詩の詠まれた状況と解釈について
- 人数は複数人で、問題の出し合いをしていた
- 夜空の青、ということから放課後あたりか
- 微分とは、数学の概念としての微分である
- ”も” という言葉によって、回答の可能性が広がる
このように解釈を進めると、いろいろなことが見えてくる。
疑問点の一番最初、問十一まではどんな問題だったのか を考えると、たぶん、普通の(例えば x^2 + 3x -5 を微分せよ、みたいな) 問題だったのではないか?
そうなれば、この詩が詩になった理由も、問12 であることも説明がつく。
ここまでは順当に問題が出てきていた、”微分” というものは数学的なキーワードとして分類し、理解されていた。
ただ、複数人が問題を出し合って、いよいよ最後の問題だというとき、その時に出たのは、こんな “変わった” 問題だった。
夜空の青を微分せよ
しかも、街の明かりは、無視して “も” 良い
さて、ここで重要なのが、”微分” という言葉の内容が、(問十一までのものとは) 大きく変化してしまったという点である。
いわば、微分が数学的なものから、そして今までの理解から離れ、ふわふわと浮いてしまった。
カギカッコ付きの、「これが微分だ!」というような “微分” との出会いそこない、これこそこの詩の主題ではなかろうか?
そして、先ほども書いたがこの問題の解答(回答) に関しては、完全に受け手に任されている。この問にどう返すか、詠み手は楽しみにしているのではないか?
とすると、この詩が Twitter などのSNS で大きな反響を呼んだことも理解できよう。これは、受けた人が「夜空の青を微分」するとはどういうことか、を考えて初めて完成と言えるからである。
それを口に出す余地が、残されているのだ。
さて、ここまでで詩自体の解釈は終わったように思う。
つまり、イメージ的には、みんなで勉強会をしているときに、ぽつりと口をついた “捉えどころのない” 問に対して、みんながあれこれ言っているところを想像すればかなり近いのではないかと思う。
だが、もちろんここで歩みを止めることはできない。なぜなら、僕もまた、問われているからである。
夜空の青を微分するとはどういうことか?
それに応えねばなるまい。
ここまでくると、なぜこれが短歌として詠まれたのか、というのがわかる気がする。
それは、照れ隠しではないのか。
“微分” というものとの出会いに失敗し、とらえ難さを感じたけれど、真面目くさっていうには恥ずかしい。
そこで、短歌という定型にのせて、(さらに数学的な問題の定型にのせて) 詠まれたのではないだろうか?
いよいよ、僕なりの解釈が始まる
さて、いよいよ、詩の解釈に踏み切っていきたいと思う。
ちなみに、ここまで見てきたのでわかる通り、ここからが完全に僕なりの解釈になり、しかもこの解釈は何か素材があるわけでもないので、賛否が色々あると思うけど、とりあえず進めていこう。
さて、微分の数学的な定義とはなんだっただろうか?
それは、変化量である。
だから、夜空の青を微分すると、出てくるのは「一定時間あたりに、どのくらい夜空の青が変化するか?」という数字である。
一次関数的に青色が減っていくとしたら、夜空の青の減少は「f = -αt + C」と表すことができるので、これを時間 tで微分すると df/ dt = α が答えになる。
ここで重要なのが、だんだん暗くなっているというシチュエーションである。夜空の青を微分した時、変化量がマイナスで出てくるということは、まだ “暗くなっていく” 途中にあるということである。(問も十二までくれば、なおさらだ)
青色だった空が、群青、藍色、濃紺、様々に、連続的に、だんだんと、変化していく。
ちなみに、変化量が0なら、もう暗いから帰ろうぜ、というメッセージとして読めるかもしれないけれど、そこで忘れてはならないのが “街の明かり” である。
もし、完全に暗くなっていたら、問題として注目されるべきなのは街の明かりの方であって、夜空の青ではない。
よって、だんだん暗くなっている方を選択したい。そして、街の明かりがつき始める頃合いだと。
ようよう暗くなりゆく青空。
その変化。
これをまとめると、以下のようになる。
「暗くなっている変化量、ただし夜空の明かりは無視するものとする」
また、これは時間的な微分の話であるが、もう1つ解釈を加えることができるように思う。それは、空間的な微分である。
どういうことか?
空の色は、時間的に一様でないのと同様に、空間的にもまた一様でない。太陽が沈む西の空はまだ明るいオレンジ色で、それと反対の東の空は一層深みのある青色をしている。
よって、この青色は空間的な(平面的な) 勾配を保つために、微分をすると西から東に向かって青色が強くなっている (これもまた、”変化量” である)と言える。
とするならば、回答は次のようになる。
「時間微分をすれば暗くなっている変化量、位置の微分をすれば色の勾配、ただし夜空の明かりは無視するものとする」
僕の回答としてはこんなところだろうか?
もう一個メタに考えるなら、この詩で出題者は何を言いたかったんだろうか?
最初、僕はこう考えていた。
“ここで、星の光やら何やらを言ってくる人、恋愛(この時間がずっと続けば良い) という人は、定義を全然抑えられていない”
とか、
“夜空が変化していくときに、なんか街の明かりが気になっちゃうんだよね…。田舎だと綺麗に見えるのかなぁ…”
とか。
Twitter でパッと見た時には、このようにちょっと皮肉っぽく笑う筆者の顔が浮かんできた。
ただ、この記事をここまで書いてきて、僕が今、抱いている印象も幾分と変わってきたように思う。(なんとここまで 5,000 文字オーバーなんでね!!)
それは、もっとシンプルで、純粋なものかもしれない。
例えば、“夜空の青さえ、微分できるんだぞ” という驚きだったのではないかなと思う。
どういうことだろうか?
普段、僕たちは微分といえば数式に適応したり、物理学の授業で使うようなものとして理解していると思う。
三角関数なんて、大人になってどこで使うんですか? というアレである。
ただ、筆者は、勉強会 (問十一まで) の最中、ふと暮れ行く青空、そして青空の色の広がりを見て、そこに微分のイメージを重ねた。変化しているものがあるのなら、微分ができるはずだ、と。
これはかなり面白い、心踊る発見ではないだろうか?
夜空の青が、微分できるとは!
そしてここで、詠み手は新たな “微分” のイメージを捉えることに成功したのである。一旦理解を離れ、曖昧になったものを、またしっかりと、ギュッと握った感覚。
そして、この問のもつ意味、それは、「あなたにも、この見方を共有して欲しい」という思いではないだろうか?
夜空の青も微分できること
この驚きや、新鮮さをこそ、伝えたかったことなのではないだろうか?
そして、今までの流れを直接に口で説明するのではなくて、「数学的なものを捉え損ね、また掴んだ」感覚を、詩的かつ数学の問題的に、韻文にのせて提示するという、そのユニークさ、ここに面白さがあるのではないか?
以上が、僕の解釈である。
もう一度、短歌を見てみてほしい。
問十二 夜空の青を 微分せよ
街の明りは 無視しても良い
今度のこの “微分” は、どういう響きを持って、あなたに立ち現れただろうか?
僕も、ぜひあなたなりの解釈を、聞いてみたいものである。
最後に:一人の場合に想像できること
はい、以上で僕の語るべきことは終わったと思っていたのですが、途中で「複数人ではなく、一人の場合は後で書きます」なんて言っちゃってたのを思い出したので、付録がわり簡単にに書いていきます。
一人の場合のイメージは、こんな感じ
- 参考書の1ページが、問11 で終わっていた
- ふと窓の外をみると、だんだん暗くなっていく夜空
- 問11 の問題文に合わせて窓の外を記述してみると
- 夜空の青を微分する ということになったけど
- どういうことだ? と考えて
- できるなぁ、と感心してしまう
こんなところだろうか?
こうすると、ただ、場面が浮かびにくいというか、絵にならないなぁ、という思いがあったので複数人ver で進めてみました。
とってもとってもイメージの次元であれこれ言っている気がしますが、ここまでが僕なりに感じたことです。
何かあれば、ぜひコメント欄にてお願いします。